土地改良区とは?
見沼代用水の水を使ってお米を作っている農家の人たちの集まりです。
見沼代用水の水を使う範囲
見沼代用水の水を利用している地区は、利根川から東京都境までの埼玉県北東部から南部の地域で、16市2町に関係する南北約60km・東西約20kmになります。
土地改良区の仕事とは?
・利根大堰から引いた見沼代用水の水をお米を作る農家の田んぼにとどけます。
・傷んだ水路を修理したり、古くなった水路を新しい水路に直します。
・堤防の草刈りやゴミを拾う清掃活動を行っています。また、水路の流れを良くするために、底にたまった
泥やゴミを取りのぞいています。
名前の由来
約1,200haにおよぶ見沼ため井を干拓するにあたり、新たな水源を利根川に求めたことにより、見沼に代わる用水として見沼代用水路となりました。
見沼代用水の始まり
・1629年に伊奈忠治により八丁堤が築かれ 、約1,200haの見沼ため井が完成しました。
見沼ため井の水は下流の約5,000haの田んぼの水源として使用されました。
・1727年(享保12年)に井澤弥惣兵衛為永により見沼代用水路が開削され、あわせて芝川が掘られ、
1,200haの新田開発と用水路沿線の沼地が田んぼになりました。
見沼代用水の役割
見沼代用水はお米を作るための水を流す農業用水路です。
江戸時代、お米はお金の代わりとして利用されていました。当時の江戸の人口は1600年頃の約13万人から1700年頃には約100万人まで増え、江戸幕府は食糧不足・財政難という問題をかかえていたことから、新田開発を行いお米を作る田んぼを増やす必要があったのです。見沼代用水は、見沼ため井の水を使い米作りをしていた田んぼと、見沼ため井を干拓して新たに開発された田んぼで使用する水を供給するために作られました。
また、見沼通船堀が掘られたことで見沼代用水路は舟運にも利用され、江戸へ年貢米や野菜などを運び、江戸から肥料や日用品などを運びました。舟運は昭和6年まで約200年続けられました。
見沼代用水の開削
工事は1727年8月から翌年2月に行われました。60kmにおよぶ水路の開削工事は、すでにあった星川を利用したり、台地のすそを利用したりと、短い時間で工事ができるよう工夫され、6ヶ月という短期間で完成しました。
十六間堰・八間堰
星川から久喜市(旧菖蒲町)で分かれ、見沼代用水の入口に八間堰、星川に十六間堰が作られ用水排水の調節を行っています。用水が必要な時には十六間堰を閉じて八間堰を開き、用水のいらない時は反対に八間堰を閉じて十六間堰を開き星川に水を流しています。堰の横の長さがそれぞれ八間(約14.5m)、十六間(約29m)であったためこの名前が付けられています。
柴山伏越
伏越とは、川の下に水路を作り横断させる施設のことです。見沼代用水と元荒川が交差する白岡市と蓮田市の境にあり、元荒川の下を見沼代用水路がくぐっています。出来たときは水を二つに分けて伏越と掛渡井で通水するようになっていましたが、掛渡井は元荒川の流れのじゃまになることから30年後に撤去されました。
瓦葺掛渡井
掛渡井とは、川の上に水路を作り横断させる施設のことです。見沼代用水と綾瀬川が交差する蓮田市と上尾市の境にあり、綾瀬川の上を見沼代用水路が通っていました。現在は伏越となっています。
見沼通船堀
見沼代用水路が完成した3年後、芝川と東縁・西縁用水路の間にさいたま市(旧浦和市)の八丁堤にそって作られました。通船堀は、用水路と芝川の間に二つの水門を作り水の高さを調節して舟を通す仕組みになっていて、閘門式運河と呼ばれています。用水路と芝川の水の高さは約3mの違いがあります。
見沼代用水路(重要構造物)パンフレットはこちら
水源について
見沼代用水は利根川から取水しています。行田市にある利根大堰で利根川の流れを堰き止め、そこから決められた量を守り取水しています。
利根川の水源は群馬県と新潟県の境にある大水上山の雪渓です。
水源についてのパンフレット(PDF)はこちら