昭和43年(1968年)見沼代用水路「元圦」の東側に、水資源公団(現:独立行政法人水資源機構)による利根導水路建設事業として利根大堰が完成し、埼玉・群馬両県下の農業用水が合口されました。

 これにより、享保年間以来240年に亘り取水されていた「元圦」は廃止されましたが、井澤弥惣兵衛為永の選んだこの取水地点が現代科学による実験等の結果からも最適地として裏付けされたこととなり、その着眼と技術がいかに素晴らしく、構想が広大であったかが、あらためて思い起こされます。

 為永は「見沼溜井」1200町歩を干拓し、この沼の代わりとなる用水を利根川に求め、約60kmの「見沼代用水路」を開削し、併せて沿線の新田開発も行いました。

 利根川に設けられた「元圦」は、当時としては例を見ない大規模なもので、久喜市菖蒲町地内には
「八間堰」・「十六間堰」、元荒川と交差する白岡市地内には「柴山伏越」、綾瀬川と交差する上尾市地内には「瓦葺掛渡井」を築造しました。これらの主要構造物には、随所に為永の工夫と技術が示されており全国的にも著名なものとなっています。

 現代のように進んだ技術や土木機械のない時代にあって、為永は水盛器という簡単な道具と竹竿等で、夜は提灯で土地の高低を測ったといわれていますが、その結果は極めて正確で、その後の通水で実証されています。

 この事業は、享保12年(1727)8月に着工し、半年後の翌13年(1728)春には完成しました。3月には「見沼新田地割」を行い直ちに通水していることから正に驚異的な早さで進められたことになります。
 為永の生涯で最大の事業であって、かつ代表的な土木事業となりました。 

 続いて為永は、水路沿線の沼等を開発し、見沼代用水路より分派する黒沼・笠原沼用水路、天久保用水路、高沼用水路等の諸用水路を新削し、ここに、かんがい面積約14,000haという全国屈指の規模である見沼代用水路が生まれました。

昭和43年利根大堰より取水のため元圦は廃止された

元圦付近見沼代用水

(埼玉県立博物館蔵)

(埼玉県立博物館蔵)

(埼玉県立博物館蔵)

瓦葺掛渡井古図
白岡市 柴山伏越古図
十六間堰、八間堰古図

(埼玉県立博物館蔵)

    見沼代用水元圦頭首工
(行田市大字下中条地内)昭和初期
     元圦樋管伏替図 明治13年作
見沼代用水取入口付近の鳥瞰図  

現在も見沼代用水路は、土地改良区の関係者はもとより地域の財産として愛され、有効に活用されています。

 徳川吉宗が八代将軍になった享保元年(1716年)は、幕府(武家時代に将軍が政治をしたところ)の財政が非常に悪く、その立て直しのため、質素倹約を第一番とし徹底させ、幕府の収入増加の為に新田開発を呼びかけました。 これが『享保の改革』といわれ、特に新田開発に力を入れたため、吉宗は、米将軍ともいわれております。

 積極的に改革を進める上で、吉宗が紀伊(現:和歌山県)藩主だった時、新田開発に手柄のあった紀州藩士
井澤弥惣兵衛為永を享保8年(1723年)に紀伊の国より連れてきて幕府の役人としました。 
 
享保十二年(1726)から十三年(1727)にかけて『紀州流』の達人井澤弥惣兵衛為永見沼に代わる用水として、わずか半年で見沼代用水路を完成。

見沼代用水普通水利組合(現:見沼代用水土地改良区)では、昭和12年に、心法寺の墓所を改修し、石灯籠及び玉垣を寄進しました。

千代田区麹町心法寺の墓石

明和4年(1767)為永三十年祭にあたり、白岡市柴山の柴山伏越のほとりの常福寺に、水路沿線の農民が為永の功績に感謝して、千代田区麹町の心法寺から分骨して墓石を建てました。

常福寺の墓石

樋守弁財天
(元圦弁天

井澤祠

 大正4年(1915)年11月為永に従5位が追贈され、同6年為永180年祭贈位報告追慕祭に際し、樋守弁財天を石造に再建しました。

樋守弁財天(元圦弁天)

井澤祠

 享保12年(1727)見沼代用水の開発にあたり、井澤弥惣兵衛為永は元圦畔等水路沿線数カ所に弁財天を設置し、灯明料を寄進して用水の潤沢平安を祈念しました。元文3年(1738)3月1日に没すると、関係農民は、その功績を永遠に伝えるため、元圦畔に為永を祭る井澤祠を建設し、文政12年(1829)石造に再建しました。
 

井澤祠【いざわしと樋守弁財天(別名“元圦弁天”)

生い立ちと活動

 為永は、井澤弥太夫為継の子として溝口村(現:和歌山県海南市)で生まれました。東京都千代田区麹町心法寺の墓石と海南市野上新の井澤家墓地にある墓碑には「元文3年(1738)3月1日没、行年76歳」とあります。[参考 江戸幕府が編集した「寛政重修諸家譜」では、85歳とも記載されています。]

 幼い頃から算数が得意で、特に土木技術にその天才を発揮したことから、村人達は村界にある黒沢山の天狗から秘術を授かったものとうわさをし、その技量を称賛したと伝えられています。元禄3年には、紀州藩主徳川光貞(二代藩主)に登用されて会計関係を担当する勘定方となっています。

 吉宗が、将軍職に就任した後の享保7年9月、為永は幕府に召し出され、享保12年には新規の開墾事業(新田開発)の一切を為永が実施することになりました。

 享保16年(1731)には勘定吟味役に昇進し、その後老齢のため元文2年(1737)に職を退き、翌3年(1738)3月1日に病により永眠し心法寺に葬られました。

為永墓 白岡市 常福寺

為永墓  東京都千代田区麹町心法寺
見沼代用水路は利根川の水を利用し、埼玉県の東南部を灌漑(かんがい→田畑に水を引くこと)するために、井沢弥惣兵衛為永により今からおよそ280年前に掘られた農業用水路で、見沼の代わりに掘られた用水路ということで見沼代用水路(ミヌマダイヨウスイロ)と言います。
 関東郡代(幕府の役人)伊奈忠治が、沼の幅が一番狭い場所の木曽呂村(川口市)と附島村(さいたま市)の間に堤をつくり、沼の水をせき止め田で使う水をためてため池(見沼溜井)を造りました。この堤はちょうど長さが八町(約870メートル)あったことから八丁提と呼ばれました。この八丁提のおかげで周囲が40数キロメートル、水面積1,200haの巨大な沼が出現し、沼の下のさいたま市から東京都足立区迄の約5,000ヘクタールの地域を灌漑(かんがい)していたと言われています。
 見沼は、江戸時代の初め頃、さいたま市と川口市にまたがって位置し、雨が降ると広がり、天気が続くとせまくなるような沼でした。沼の形は鹿の角のような形をしていました。(右図参照)
見沼のあった所

八丁提の作られる前と後

 その後約100年経った頃になりますと、見沼のかんがいする水田は沼の能力以上に開発されたため、水を使う時期には用水が不足し、反対に大雨が降ると水があふれて水害となるようになりました。