土地改良区とは?
1949年に制定された土地改良法によりできた、農業を営む人たちの組織です。
ほ場(田んぼ)整備をしたり、農業用のため池や、水路など様々な土地改良施設の維持や管理をしています。
1949年に制定された土地改良法によりできた、農業を営む人たちの組織です。
ほ場(田んぼ)整備をしたり、農業用のため池や、水路など様々な土地改良施設の維持や管理をしています。
約1,200haにおよぶ見沼溜井を干拓するにあたり、新たな水源を利根川に求めたことにより、見沼に代わる用水として見沼代用水となりました。
八丁堤が作られる前
八丁堤が作られた後
見沼代用水はお米を作るための水を流す農業用水路です。
江戸時代、お米はお金の代わりとして利用されていました。
当時の江戸の人口は1600年頃の約13万人から1700年頃には約100万人まで増え、江戸幕府は食糧不足・財政難という問題をかかえていたことから、 新田開発を行いお米を作る田んぼを増やす必要があったのです。
見沼代用水は、見沼溜井の水を使い米作りをしていた田んぼと、見沼溜井を干拓して新たに開発された田んぼで使用する水を供給するために作られました。
また、見沼通船堀が掘られたことで見沼代用水は舟運にも利用され、江戸へ年貢米や野菜などを運び、江戸から肥料や日用品などを運びました。舟運は昭和6年まで約200年続けられました。
工事は1727年8月から翌年2月に行われました。60kmにおよぶ水路の開削工事は、すでにあった星川を利用したり、台地の裾を利用したりと、短い時間で工事ができるよう工夫され、6ヶ月という短期間で完成しました。
星川から久喜市(旧菖蒲町)で分かれ、見沼代用水の入口に八間堰、星川に十六間堰が作られ用水排水の調節を行っています。
用水が必要な時には十六間堰を閉じて八間堰を開き、用水のいらない時は反対に八間堰を閉じて十六間堰を開き星川に水を流しています。
堰の横の長さがそれぞれ八間(約14.5m)、十六間(約29m)であったためこの名前が付けられています。
伏越とは、川の下に水路を作り横断させる施設のことです。見沼代用水と元荒川が交差する白岡市と蓮田市の境にあり、元荒川の下を見沼代用水がくぐっています。
出来たときは水を2つに分けて伏越と掛渡井で通水するようになっていましたが、掛渡井は元荒川の流れの邪魔になることから30年後に撤去されました。
掛渡井とは、川の上に水路を作り横断させる施設のことです。
見沼代用水と綾瀬川が交差する蓮田市と上尾市の境にあり、綾瀬川の上を見沼代用水が通っていました。現在は伏越となっています。
見沼代用水が完成した3年後、芝川と東縁・西縁用水路の間にさいたま市(旧浦和市)の八丁堤にそって作られました。
通船堀は、用水路と芝川の間に二つの水門を作り水の高さを調節して舟を通す仕組みになっていて、閘門式運河と呼ばれています。用水路と芝川の水の高さは約3mの違いがあります。
見沼代用水は利根川から取水しています。行田市にある利根大堰で利根川の流れを堰止め、そこから決められた量を守り取水しています。
利根川の水源は群馬県と新潟県の境にある大水上山の雪渓です。
見沼代用水の水を利用している地区は、利根川から埼玉県と東京都の境(埼玉県北東部から南部の地域)で、16市2町に関係する南北約60km・東西約20kmになります。
享保12年(1727)から13年(1728)にかけて
『紀州流』の達人井澤弥惣兵衛為永翁が見沼に代わる用水として、わずか半年で見沼代用水を完成。
徳川吉宗が八代将軍になった享保元年(1716年)は幕府の財政は非常に悪く、その立て直しのため、質素倹約を第一番として庶民に徹底させ、幕府の収入増加の為の新田開発を呼びかけました。 これは『享保の改革』といわれ、特に新田開発に力を入れたことから、吉宗は米将軍とも呼ばれています。
積極的に改革を進める上で、吉宗が紀伊(現:和歌山県)藩主だった時、新田開発に手柄のあった紀州藩士 井澤弥惣兵衛為永翁を享保8年(1723年)に紀伊藩より連れてきて幕府の役人としました。
為永は「見沼溜井」1200町歩を干拓し、この沼の代わりとなる用水を利根川に求め、約60kmの「見沼代用水」を開削し、併せて沿線の新田開発も行いました。
利根川に設けられた「元圦」は、当時としては例を見ない大規模なもので、久喜市菖蒲町地内には「八間堰」・「十六間堰」、元荒川と交差する白岡市地内には「柴山伏越」、綾瀬川と交差する上尾市地内には 「瓦葺掛渡井」を築造しました。これらの主要構造物には、随所に為永の工夫と技術が示されており全国的にも著名なものとなっています。
現代のように進んだ技術や土木機械のない時代にあって、為永は水盛器という簡単な道具と竹竿等で、夜は提灯で土地の高低を測ったといわれていますが、その結果は極めて正確で、その後の通水で実証されています。
この事業は、享保12年(1727)8月に着工し、半年後の翌13年(1728)春には完成しました。3月には「見沼新田地割」を行い直ちに通水していることから正に驚異的な早さで進められたことになります。為永の生涯で最大の事業であって、かつ代表的な土木事業となりました。
続いて為永は、水路沿線の沼等を開発し、見沼代用水より分派する黒沼・笠原沼用水、天久保用水、高沼用水等の諸用水路を新削し、 ここに、かんがい面積約14,000haという全国屈指の規模である見沼代用水が生まれました。
昭和43年(1968年)見沼代用水「元圦」の東側に、水資源公団(現:独立行政法人水資源機構)による利根導水路建設事業として利根大堰が完成し、埼玉・群馬両県下の農業用水が合口されました。
これにより、享保年間以来240年にわたり取水されていた「元圦」は廃止されましたが、井澤弥惣兵衛為永翁の選んだこの取水地点が現代科学による実験等の結果からも最適地として裏付けされたこととなり、 その着眼と技術がいかに素晴らしく、構想が広大であったかが、あらためて思い起こされます。
為永は、井澤弥太夫為継の子として溝口村(現:和歌山県海南市)で生まれました。東京都千代田区麹町心法寺の墓石と海南市野上新の井澤家墓地にある墓碑には「元文3年(1738)3月1日没、行年76歳」とあります。[参考:江戸幕府が編集した「寛政重修諸家譜」では、85歳とも記載されています。]
幼い頃から算数が得意で、特に土木技術のその天才を発揮したことから、村人達は村界にある黒沢山の天狗から秘術を授かったものと噂し、その技量を称賛したと伝えられています。元禄三年には、紀州藩徳川光貞(二代藩主)に登用されて会計関係を担当する勘定方となっています。
吉宗が、将軍職に就任した後の享保7年9月、為永は幕府に召し出され、享保16年(1731)には勘定吟味役に昇進し、その後老齢のため元文2年(1737)に職を退き、翌3年(1738)3月1日に病により永眠し心法寺に葬られました。
享保12年(1727)見沼代用水の開発にあたり、井澤弥惣兵衛為永翁は元圦畔等の水路沿線数カ所に弁財天を設置し、灯明料を寄進して用水の潤沢平安を祈念しました。 元文3年(1738)3月1日に没すると、関係農民は、その功績を永遠に伝えるため、元圦畔に為永を祭る井澤祠を建設し、文政12年(1829)石造に再建しました。
大正4年(1915)年11月為永に従5位が追贈され、同6年為永180年祭 贈位報告追慕祭に際し、樋守弁財天を石造に再建しました。
明和4年(1767)為永三十年祭にあたり、白岡市柴山の柴山伏越のほとりの常福寺に、水路沿線の農民が為永の功績に感謝して、千代田区麹町の心法寺から分骨して墓石を建てました。
見沼代用水普通水利組合(現:見沼代用水土地改良区)では、昭和12年に、心法寺の墓所を改修し、石灯籠及び玉垣を寄進しました。
令和元年9月4日にインドネシアのバリで開催された「国際かんがい排水委員会(ICID)」国際執行理事会において、見沼代用水土地改良区が申請した「見沼代用水」が「世界かんがい施設遺産」として登録されました。
世界かんがい施設遺産(World Heritage Irrigation Structures)は、かんがいの歴史・発展を明らかにし、理解醸成を図るとともに、かんがい施設の適切な保全に資するために、歴史的なかんがい施設を国際かんがい排水委員会(ICID)が認定・登録する制度のことです。
世界かんがい施設遺産:農林水産省見沼代用水の主要構造物付近に石標を設けました。
この石標は、かつて瓦葺掛渡井の土台として使用された石材を再利用し作製されたものです。
設置場所 | |
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元圦 | 行田市下中条地内 |
柴山伏越 | 白岡市柴山地内 |
瓦葺伏越 | 蓮田市蓮田地内 |
見沼自然公園脇 | さいたま市緑区南部領辻地内 |
原形保全区間 | さいたま市緑区南部領辻地内 |
木崎橋付近 | さいたま市浦和区三崎地内 |
見沼通船堀(西縁) | さいたま市緑区大間木地内 |
当土地改良区では、事務所入口横にある展示室で見沼代用水はどうやってできたのか、どこを流れ、どんな機能があるのかを分かりやすく説明したパネル・資料を展示しており、どなたでも自由に見学いただけます。 資料が欲しい・質問したい等ありましたら、窓口の職員にお声がけください。
展示室 | |
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見学料 | 無料 |
見学時間 | 月~金 9:00~16:30 |
休所日 | 土日祝、年末年始 |
団体利用 | 事前に電話またはHPからお問い合わせください |
展示資料は一部を除き、無償でお渡ししています。